「こんにちは モスクワのリリーちゃん」

「ロシアに行こう!」
出会いがしら、ゴロちゃんに呼び止められた。

友とはヨロコビを分ち合う関係である、と、誰か言っただろうか!?
それはさて置き、夜の友は、まさにヨロコビを分ち合う関係と言える。楽しい店を見つければ、その情報を。美人ママを見つければ、客の生き残りレースを。可愛いホステスを見つければ、メルアドの取り方を。そう、懇切丁寧に教え合うのだ。
余りに懇切丁寧すぎて、ひとりの相手を分ち合うことさえある。このときは真の友情が試される。絶交するか、兄弟になるか、ハムレットの心境である。

…ウン…ホントかぁ!?…ただのスケベじゃないの…てか…

実は当方にも、夜の友がたくさんいる。十年来の付き合いであるが、昼間に出会ったことがないので、いったいどんな仕事をしているのか、全く知らない連中である。相手もコチラが何者か知らないのだ。それでも夜の街では、深い絆で結ばれている。

ゴロちゃんは、そのような親友のひとりだ。で、彼はロシアにハマっていた。
曰く、「映画に出てくるような美人が一杯いるんだ」

…!?…

曰く、「サブリナちゃんは25歳のヘップバーンで、オードリーちゃんは二十歳のヘップバーンにそっくりなんだ」

…!?…

曰く、「教養があって、あからさまにマネーとか、プレゼントを要求したりしない。マックのハンバーガーをおごっただけで、幸せそうな表情を見せられると、感動するよ」

…!?…

「…ニシヤンには…ゼッタイ紹介するよ…」

この熱い友情のお陰で、当方、何度危険な目にあったことか…。

…今夜のアルコールは痔に悪そうだから、よしとくワ!… 
と言う間もなく、腕を取られて繁華街の外れまで連れて行かれた。ひと気の途絶えた裏通りにあるタバコ屋、その脇に地下へ降りていく階段がある。ひとりで歩いていたら、全く気付かない入口だ。
暗がりを下りると、覗き窓の付いたベニヤ張りの扉。どう見てもヘップバーンが隠れているとは思えないその扉を開けると、原色の光が目に飛び込んでくる。ピンクやグリーンの蛍光灯がそのままベニヤ張りの部屋を照らしている。何とも浅薄な色彩に思わず目を打たれる。コレって、ロシアというよりチャイナの奥地、雄大な自然観光地にあった場違いなディスコに入ったときと同じ光景だ。

「いつものオードリーちゃん…。コチラは…ウーン…リリーちゃん…ね…」
ゴロちゃんが当方の相手を選んでくれる。

しばらくして、ゴロちゃんの隣にキツネ顔の女性が座る。

「ライしゅう、ゴロさん、あたらしいショーの、カメラ、トって、ください…」
「写真ね、勿論いいよ。ところで紹介するよ、親友のニシヤン…」
「ショーのドレス、オードリー、ツくっタネ。セなか、おシりまで、セクシー。コンドは、セクシーなオどリ、すごいイイネ」

ローマの休日」のヒロインとは、確かにローマと北極圏ぐらいの距離があるかもしれない。ショーの話が終わると、突然、当方に声を掛けてきた。

「ニシ…Yan!? …そう…、ニシ…Yan…よロ…しク…」

困った。ホントに痔が疼きそうだ。
ふたりの会話を聞くともなく聞きながら、独り空気になって水割りを飲む。
サンクトペテルブルグでダンス教師をしていたオードリーちゃんは、何かの経緯があって、歌舞伎町で働いている。こんな場末の外人パブにいても、ショータイムの踊りに意欲を燃やす彼女には、きっとダンス教師の思いが残っているに違いない。白夜の街で彼女はどんなダンスを教えていたのだろう。

に、しても、当方のお相手の登場が遅い。いつまで待たせるんだ。時間制の外人パブで10分以上放ったらかしはボッタクリと同じである、と不満をアルコールと一緒に飲みながら周囲を眺める。ロシア女性と言えばトルストイドストエフスキーと六本木のチンプンカンプン以外、知識がない。つまり、まったく想像がつかない。それだけに、心の底では微かな光を求めている。

二杯目を空けた頃、「お待ちどうさま…」

キレイな日本語が耳元で囁かれる。見ると、何となく懐かしい顔の女性が座っている。アレ、どこかで見たことがあるような気がする。

「ごめんなさい、お待たせして…」

流暢な日本語に驚く。背は高くなく、髪はナチュラルブラウン、体型はプリンプリン系であるが、デブではない。美人ではないが、ブスでもない。アジア人ではないが、まるっきりの欧米人にも見えない。ブラウスの襟元から胸の谷間が見えるが、セクシーではない。なんて言えば良いのだろう。公園のベンチに座ったら、たまたまそこにいた女性とか。図書館で偶然隣にいたとか。化粧っけがないせいか、夜の店で客の相手をする感じがしない、まったく自然な女性に見える。当方にとっては初めてタイプである。

「言葉が上手だね」
「そうでもない…」
少しシャイな表情を見せる。
「ロシアのどこから」
「モスクワ」
「どうしてこの街に」
「そうね…」

つまらないことを聞いてしまった。外人パブのホステスと自然な会話ができるのは初めての経験なので、つい深追いをする。
こちらが空けた杯にウイスキーを入れ水割りを作ると、彼女はすっと席を立つ。
当方、また、独りで空気になって水割りを飲む。

「ごめんなさい…」
「何が…」
「途中で席を立ったから…」
「どこで日本語を勉強したの?」
「お店で…」
「じゃ、日本人の彼氏がたくさんいたんだね…」

少し首をひねって、ブラウスのポケットからコクヨの小さなノートを取り出す。

「分からない言葉は、ここに書いてもらうの…」

見ると日本語の単語や短文が、細かい文字でびっしり書き込まれている。ロシア語による注釈は少なく、客が日本語で解説を書いていて驚く。これをすべて覚えたのだろうか。

「モスクワでは何をしていたの?」
「看護婦。お母さんも看護婦で同じ病院で働いてた。でも、給料がとても安い、だから日本に来た…」
「こんなに遠い国まで来て、酔っ払いの相手をするのは疲れない?」
「日本の男性は大人しい、優しいから疲れない」
「でも本音では、ロシアの男性の方が良いんでしょ?」
「日本の男性の方が好き」
「いま彼氏はいるの?」

店員が呼びに来て、彼女はまた席を立つ。
当方、再び独りで空気になって水割りを飲む。
ゴロちゃんの解説によると、彼女たちの給料は安いという。観光ビザで来日するコも多く、頻繁に祖国に帰らなければならない。渡航費を稼ぐのも一苦労。それでも物価の違いで、日本の稼ぎは祖国では大金だそうだ。

「ごめんなさい。また席を外して」
「人気者だね」
「私、日本語が話せない女のコの面倒をみないといけないから、彼女たちから呼ばれるの…」
ちょっと首をすくめる。その仕草の中に、通訳としてのポジションに余り満足していないことが、感じられる。

なるほど、これだけ流暢に日本語が話せると、周囲はいろいろ彼女に頼ってしまうだろう。特別に美人とも言えない彼女もそのポジションを受け入れているようで、だから、客に媚びる風がなく、化粧けもなく、自然な雰囲気が出せていたんだろう。でも、やはり夜の店に働く女性だから、少しぐらいはチヤホヤされたいよね。きっと…。

「リリーちゃんと話していると、落着くね」
「……」
「外人パブで、こんなに自然な感じで話ができたのは初めてだよ」
「……」
「リリーちゃんとなら、ずっと話をしていても疲れないような気がする…」
「……」

相手は覗き込むような表情で、しかし丸い瞳を見開いて、当方を見つめていた。
不意に、鋭い矢で当方の目を射抜かれたような気がして、ハッとする。彼女の目から、外人とか、日本人といった人種を超えた、女の普遍的な輝き、男の心を一瞬で裸にしてしまうような光が放たれた、ように思えた。…気のせいかもしれないけれど…

「リリーちゃん、そんな目で見ないでくれる…。心臓が止まりそうだよ…」
「心臓が止まりそう?」
「看護婦さんだから、知っているだろうけれど、実はカウンターショックで心臓を止めたことがあるんだ」
「どうして?」
「ウン、つまり、その、恋をしたから…」

彼女の目が、急に和らぐと、ケラケラ笑い出した。当方としては、それほどウケると思わないフレーズなのに、彼女の笑いが止まらない。

「だから、そんな目で見つめられると心臓に悪いんだ」
「大丈夫、私があなたの胸の骨を折って、心臓の筋肉の運動をしてあげるわ」
「なるほど、それは、とても刺激的だね」

彼女の目がクルクル動く。ヘップバーンのような美貌じゃないけれど、銀幕では見ることのできない生き生きした表情に包まれている。

…恋は心臓マッサージ…

リリーちゃんのノートに新しい日本語を追加した。

…何それ?…
…恋をすると胸がドキドキし、酷くなると不整脈を起こし、それを直すために心臓を止め、止まった心臓を直すために肋骨を折り、折った胸の上から心臓をマッサージする、という意味…

再びケラケラ笑い出す。その笑顔を見ていると、日本もロシアもローマも、案外、地球は近いのかもしれないと思う。

特別にドラマのないひと時を過ごす。緊張しないで話のできる外人パブも良いもんだと思った。

夜は密かに息づいて静かに更けてゆく。日本語が話せる外人パブのヘルパーさん大好き。