思い出のゴールデン街
新宿ゴールデン街は復活したと言われているが、実のところ当方、いまいち実感できないでいた。と言うのも昔のイメージが強くて、あの頃のような店と客の濃密な関係は再現できないだろうと思っていたからだ。
が、それは思い過ごしだった。
そう、ゴールデン街は復活した。
この半年の間に、多くの店がオープンした。現役の若い女優さんが始めた店には演劇関係の仲間が多く来店するが、イチゲンである当方のような風来坊にも、とても気を使っていただいて居心地が良い。常連しか入れない店もあるが、入ってしまえば追い出されることもなく、昔のように作家やジャーナリストが変わらず飲んでいる姿を見かけて驚く。老舗の看板を付けていても、中にいるママやマスタアはグンと若返って、その分、客層も若く、街全体に活気が見えてきた。
となると、当方としては、一通り、新しい店をチェックしたいのである。で、最近、再びこの街を徘徊するようになった。
「なんちか、男にとっちゃ、人生で一番大切な言葉は『外に出ろ』の一言なんじゃ」
最近、何となく気に入って、顔を出すようになった店で、いきなり別の客にカラまれた。と言うより、この店の客は皆、どこか濃い〜のである。その濃い〜ところが面白い。
フラリと入った初日のこと、他所で何度か席を並べたことのある客が、この店のママを賛美して、飽きることがない。
「本気でよ、オレはキッコに惚れてんだ。男がよ、惚れるってーのはよ。命を捧げるってーことなんだ、わかるかー」
いきなり直球を投げていた。
二度目に顔を出した折は、あたふたと駆け込んできた別の常連が大声で自慢話を始めた。
「キッちゃん、聞いてくれよ。今、イタリア人のカップルが表にいたんだ。彼氏があっち向いてる間によ、ブォナセーラ、セニョリーナ、アモーレ、セニョリーナって言ってやったら、いきなりブチュとキスしてきたんだ。しかもだ、濃厚な接吻なんだぜ。オレ、腰が抜けそうだったよ」
この男も、ノッケから火を噴いていた。
三度目に顔を出したときは、なんとあのミッキーさんがいた。長年ゴールデン街で店をやっていて、3丁目あたりも含め11軒の店を持っている。今ではこの街の長老といっても過言ではない。そのミッキーさんが、すでにこの界隈のアイドルママになりつつあるキッコさんにCD-ROMの焼き方を教わっていた。若いときのミッキーさんはつぶらな優しい目をしていた。最近は多くの従業員を抱え、硬いまなざしの日が多いように思っていたが、この夜は、若いときに見たあの柔和な、そして少しシャイな目だった。
この店は昔のゴールデン街の店に似ている。客と店の関係がとても濃くて、客はあっけらかんと感情をママにぶつけ、下町育ちのママは小気味よくポンポンとその感情を撥ね返している。
聞けば、当方も知っているようなこの街のコアな客が常連に名を連ねていると言う。なるほど、たった半年でこの街の通人たちから認められ、可愛がられている店だった。と言うことは、この店でしくじるとゴールデン街中に噂が広がり、周囲を敵に回すことになる。
で、四度目に顔を出したこの夜、当方、なぜか鹿児島出身のテツに絡まれていた。テツなる客はもともとカラミ酒なのだろうか。
「外に出ろ。こん言葉さえ知っちょれば、男は遅れを取ることはなか。チェースト」
「…!?…」
フラッと外へ出たテツがハルオさんと呼ばれる男を連れて戻ってきた。この店の共同経営者だと言う。同じゴールデン街に別の店を開いていて、経理を加えて3人で2軒の店を運営しているんだそうだ。そのハルオさん、テツとは同郷なのだろうか、外に出ろ、と繰り返すテツをフォローするように鹿児島の気風について説明してくれる。ほかに客は当方だけ。それとなくこちらに気を使っている。で、当方、穏やかに鹿児島の気風について講釈を受ける。
「そうだ、ハルオの店に行けよ」
テツの提案に同意する。なんとなく場が持てなくなっていた。外に出ると、テツに案内され、三筋離れたハルオさんの店に入る。テツはそのまま元の店に戻った。
少し暗いが、シャレた店だった。カウンタアが長く、入口近くがアールになっていて、客のスペースが広い。表だけでなく、裏にも扉があって、裏からも出入りができる。
… ウ〜ン!? …
当方、しばらく店の様子を確かめる。
コンクリートで固めたカウンタア。壁に作り付けた棚。対面の壁に嵌め込まれた足のないテーブル。足休めの段差に固定の丸椅子。
間違いなかった。
「ハルオさん、この店、昔、オレもやってたんだ…」
エスパすりい、通称ニシヤンの店だった。まさか自分がやっていた店に来るとは思わなかった。
…そうか、この店も再開したんだ…
女性客ばかり、4人がカウンタアに座って、ハルオさんの誕生日を祝っている。当方、その乾杯に参加しながら、ニシヤンの店の情景を思い出す。
いや、思い出すと言うより、むかしの店の面影に触れるだけで、どこかに紛れていた記憶のスイッチに、いきなり電気が灯り、頭の中のスクリーンに脈絡もなく断片的な映像が流れていく。忘れかけていた人々の情景が次から次と現れてくる。
…あのう、2万円貸してくれませんか。この人と朝まで過ごしたいから…
…わたしも諦めるから、あなたも諦めて…
…人生はただ生きるだけでも価値があるんだ。だから、死ぬなよ…
…アッちゃんが包丁を持ち出したんだ…
…たまらなく寂しい。寄り添ってくれるオトコが欲しいわ。だって涙も出ないほどみじめなの…
…あなたが望むなら、あたし、どんな苦労でもするわ…
…あなたの側にいるだけで恥ずかしい。でも、あなたの側にいるだけで嬉しいわ…
…ニシヤンはバカよ。計測不能なバカよ。救いようのないバカよ…
…人生の芸術家だから破産しったって気にすることはないじゃないか…
…この店に来る客はみんな家族なんだ。だからケンカばかりするんだよ…
…またフラれたんだって、今夜は愛ちゃんもフラれたんだよ。どうだい一緒に飲めば…
…フラられた者同士、とりあえず同棲します…
…ニシヤン、また来週、飲みに来るね…
…今度は彼女を連れておいでよ…
一人ひとりの席に、一人ひとりの顔があり、一人ひとりの言葉が語り掛けてくる。もうすっかり忘れていた情景が突然脳裏にせまってきて、胸を熱くする。
そうだった。ここはかつてニシヤンの店だった。でも今はハルオさんたちの店だ。テツなる客が当方に絡んだのも、実はこの店と再会するための謎解きだったのかもしれない、と変にナットクする。
帰り際、飲み代を払って表に出ると、ハルオさんが追いかけて来て言った。
「テツのことは許してやって欲しい。アイツ悪い奴じゃないから」
当方、首をかしげる。確かにカラミ酒だったが、そんなに不愉快な思いをしたわけでもない。わざわざ謝る必要もないではないか。
が、その理由は後日、さりげなく語ったママの言葉で分かった。
「最近、キッコは恋をしてるんじゃないのか? て、ハルオさんが訊くから、ニシヤンって知ってる? て、答えちゃった」
なるほど、この前はあの二人に誤解されて、当方が試されていたんだな。しかし、こんなにアッケラカンと感情を口にできる店も珍しいか。いや、そうじゃない。昔からゴールデン街はアッケラカンだった。そうなんだ、こんなにアッケラカンと感情を口にできる街だから、人間を見詰めることに長けたジャーナリストや作家や映画人や演劇人が集まってくるのだろう。そして心の底から発露する言葉が飛び交う中で人々は輝きを増していく。そう、ゴールデン街は復活した。