文豪の教え…は…危険がいっぱい!

酒場に通いつめると、当り前のことだが、酒の上での失敗は一度や二度ではきかないもの。隣に美人が座っているからといって、これぞ天命と信じ口説いていると、突如ヤクザ系男性が現れ脅しを入れられることもある。コレ、俗にいうツツモタセ。あるいは酒好きのOLと意気投合したのは良いけれど、知的な彼女いきなり酒乱に変身、その責任を一身に浴びることもある。
まあ、こんな話は序の口、語るに足らないかもしれないが、やはり酒場に通う以上は、粋に楽しく過ごしたい。欲を言えば、酒場でモテるその道の達人と呼ばれたいなあ。しかし酒場の達人ってナニ!?

高校生の頃、尊敬すべき文豪の名文を読んだことがある。
曰く、つるりと女の尻を気軽に撫でることのできる男性こそ、じつは赫々たる戦果をあげているという人物だ。
ブー…、先生、いったい何を仰るのです…。
さらに先生、女の尻を触って喜ばれこそすれ相手に不快を与えたためしがない、と豪語する。
ホ、ホントかなあ?
しかし、この名文に気躓いて以降、「つるりと女の尻を気軽に撫でることのできる男性」という言葉が頭から離れなくなった。と言って、決して満員電車の中でそれを実行したことはない。

先日、久しぶりにコピーライターの友人と会う。無類の酒好き、文学好き。小説家の友人も多く、飲むと一方的に文学論を聞かされる。当方はチンプンカンプン。であるが、熱中して話す彼の姿を見ているのは悪くない。

「つまりクリエイティヴ・ノンフィクションが生み出したウィットや懐疑主義は、事実とその裏にある真実の谷間に吊り橋を掛けるような試みなんだ」
「……?……」
「まあポストモダン・フィクションの限界と現実の複雑さを打ち破ることが目的だけれど」
「……?……」

チンプンカンプンな友人の話を聞いていると、なんだか脳の空洞に溜まったすすを払ってもらったようで、なんとなく賢くなった気がして、心地よい。
が、その日はどうも聞き上手になれない。隣のカップルの会話が、友人の言葉の間に侵入して、気になって仕方がないのだ。

「過去の否定でも破壊でもなく…」
「……?……」
『オマエの本性は全部お見通しだよ』
「……!?……」
「要は再構築なんだ…」
「……?……」
『オマエはサイテイなオンナだよ』
「……!?……」
「形式や概念を呑み込むんじゃなくて」
「……?……」
『いったい何人の男をくわえ込めば気が済むんだよ』
「……!?……」
「一方はポストモダン的であり…」
「……?……」
『ちょっと口説かれたら簡単になびきやがって』
「……!?……」
「他方はアヴァンギャルド的なんだ」
「……?……」
『あばずれだよオマエは』
「……!?……」

隣に女がいる。その横で男が一方的にその女をなじっている。不快な男の言葉がストレートに耳に入って聞き苦しい。酒のせいかもしれないが、ネチネチと悪言を繰り返して、ほとほとウンザリしていた。女はまったく冷め切っている風に、男の言葉に反応しない。しかしこんな男と付合う女も悪い。一発、酒をぶっ掛けて出て行けばいいじゃないか。男の皮肉や讒言を聞いているうちに、この女が男をブン殴って出て行くことを願う自分に気づく。せっかくの楽しい語らいが、悪質なウィルスに侵入されて台無しだ。

店を代えようか、でも友人の弁舌はすでに加速状態を通り越して、高速道路に入ってしまった。ここで話の腰を折るのも申し訳ないし、どうしたものか、思案をしていると、ふと、あの文豪の名言を思い出したのだ。

「つるりと女の尻を気軽に撫でることのできる男性こそ、ホンモノだ」

当方、0.1秒ですべての事態を考えた。

つるりと尻を撫でると…。

1)女は当方の無礼に怒って店を出て行く。男もスッポンのように女に付いて出て行く。
2)女が男に言い付ける。男が怒る、それをキッカケに友人にはインターチェンジに入っていただいて、男を追い出す。
3)逆に返り討ちに遇う。

ともかくこの事態を打開しないことには、極度に難解な話と、極度に聞き苦しい話がミックスされて、極度に悪酔いしかねない。何とかこのカップルに退散願いたい。
と、考えた瞬間、無謀にも、当方の手が隣の女性の尻を…。

つるりと撫でた。(オレもサイテイなオトコだ)

一瞬、女の体がピクリと動作するのを、肩越しに感じる。

心の中で次の展開に対応ができるよう身構える。が、何も起こらない。当方は友人の話に聞き入っている。女も相変わらず男になじられている。

そうか、当方の「つるり」は不発に終わったか。それにしても、こんなに侮蔑されて黙っている女にも問題がある。二人が良い関係でないことはハッキリしているが、いったいどのような関係なんだ。

と、そのとき、こちらの体がピクリと固まる。

カウンターに頬杖をつき、片手はヒザの上に置いていた、その手の上に女の手が添えられている。

…ウン?…

こちらは相変わらず友人の話に聞き入っている。女も男になじられ続けている。何も変わらない。なのに知らない手と手が触れている。

しばらく放って置くと、女の手がオズオズとこちらの掌を確かめるように撫でていく。
「つるり」の返礼なのか?
それとも男好きなのか?
女の意図がよく読めないので、ひょっとして文豪が語るように、当方の「つるり」が相手をその気にさせたかもしれない、と思うと、なんとなく鼻の下がポヨーンと延びそうになる。

「知覚と現象の間には複雑な回路があるけれど」
「……??……」
『結局オマエの頭ン中にはアレ以外何もねえんだろ』
「……!!??……」
「神話と言うメタファーを使って複雑性を克服するというのはどうだろう」
「……???……」
『オメエみてえなオンナに引っ掛ったオレはみんなの笑いモノだゼ』
「……!!!???……」

女の手が不意にこちらを強く握りしめる。男の罵詈に女の手が反応しているのが分かる。戸惑うような、助けを求めるような、不安定な震えが伝わってくる。強い衝撃を受けた小さな子供のような震えだった。
そうかあ、と思う。
男の悪言に女はシュールに無感覚だった訳ではないのだ。むしろ、いっぱいイッパイの状態で執拗な男の悪罵に耐えていたわけだ。

ナーンダ、女が当方の手に触れたのは、例の「つるり」に色気を感じたせいではないのだ。当然と言えば当然だが、少し期待を持っていた分、何となく拍子抜けして、もういい加減にして帰ったら、と言う意味を込めて、相手の手の甲を軽く叩いて離すと、女は手綱を失ったかのように、慌てて当方の手首を握り直した。

…アレレレ…

こちらは相変わらず難解な話に聞き入っている。女も相変わらず男になじられている。何も変わらない。なのに密かな関係が背中合わせに始まった。

変質的な嫉妬と罵倒する快感を丸出しにした男の話を鵜呑みにすることはできないが、この女もどうしてこんな男に支配されてしまったのだろう。彼女の手の微かな震えから推測すると、大胆な性格ではないし、むしろ弱弱しい従順な性格、どちらかと言えば、周囲に流されるような主体性のない女に思える。好きと言われれば、何も疑わず、好きになり、バカと言われれば、反論もできず、落ち込んでしまうタイプ。この男はそんな気弱な女を自分の気が晴れるまでサンドバックのように侮辱し続けているのだ。

「リアリティーを解析するだけじゃ、もうこの世界からは抜け出せないんだ」
「……????……」
『バカと付き合ってバカにされて、オレがバカみてえじゃねいか』
「……!!!!???……」

女の脈がこちらの指先に伝わってくる。その頼りない脈動に触れていると、こちらまで切なくなる。トクントクンとしたリズムが女の密かな嗚咽のように思えて、なんだか悲しい気分になる。
しかし、コレって当初の企みとはまったく違うんだな。文豪がのたまうシチュエーションでは、「つるり」はもっとスマートで洗練された男と女のコミュニケーションなのに、どうして当方が真似ると、こうも危ない状況になるんだろう。

『付き合った女の中で、オメエが一番サイテイだよ』

「…!!!!!!!!!!!…」

しかし、この男を黙らせるにはどうしたら良いんだ?

当方、0.1秒ですべての事態を考えた。

二度とこの店に顔が出せないような屈辱、女を侮蔑した100倍の侮辱を味合わせてやりたい。しかし、どうすればそんなことができるんだろ。尻を触る。腰を触る。背中を触る。顔を触る。頭を触る。

…ウン…

そうかあ、この男をギャフンと言わせるには、男が言うようなサイテイな行動に出るしかないんだ!

嗚呼、神様お許しを!

「つまり、それが解釈的行動の帰結というものなんだ、ニシヤン…ウン…???…」

『オメエみてえなオンナは、どっかのバカを相手にしてりゃイイんだよ…ウン…???…』

指と指を絡ませた手と手で大きな弧を描くと、女の体は向きを換え、反転してこちらの胸に飛び込んでくる。と同時に、彼女の腰をグイと引き寄せると、何のためらいもなく、そう(女の直感で予測していたのかもしれない)何のためらいもなく、唇と唇が自然に重なり合う。

「…………………………………」

『…………………………………』

静寂の中で、とりあえず二人は固まっていた。客は他にもいたのに、突然店の中が静かになった。多分、呆気に取られたんだろう。無関係な男女がいきなり向きを換えて抱き合っている。前後の繋がりも、左右の関係も、何もない、まったく対照的な二人組が、たまたま隣り合わせに座っただけなのに、こんな事態になってしまった。友人も男も一言もない。ただ黙っているだけで、まったく事態が飲み込めないようだ。

粋の極みであるはずの、例の「つるり」は予想外の展開になった。しかも周囲には到底説明がつかないのっぴきならない状況を自ら作ってしまった。しかし、こんなとき誰かに言い訳めいたことを言うのもイヤ、相手の男と口を利くのもイヤ、ありきたりな仲裁もイヤ。と言って、いつまでもこの状態ではいられない。面倒な話はせず、せめて最後はスマートにいきたい。

当方、今度は1分以上ゆっくり時間を掛けて次の事態を考える。

1)男は騒ぐだろうか?いや騒がない。なぜならもう沈黙しているではないか。
2)女はまた男にいじめられるだろうか?少なくともこの店ではいじめられない。
3)どうしたら女を傷つけずに、元の状態に復帰できるのか?

…ウン…

元の状態に復帰する?…。再起動?…。工場出荷状態?…。

…そうか…。

そっと唇を離すと、握り合った手でもう一度大きな弧を描いてみる。女は丸椅子を回転させ、何もなかったように男の方に向きを換える。こちらもその反動で、元の体勢に戻った。
目の前に驚愕の表情を浮かべた友人がいる。その表情を眺めながら、ゆっくりうなずいて、相槌を打った。

「ナルホド、これが解釈的行動の帰結なんだネ」

夜の街には予測できない危険が潜んでいる。そんな危険に絡んでしまうサイテイな自分を恨みながら、密かに女を思う。愚かな男に翻弄されるウブでやさしい酒場の女、大好き。