「ピンクの電話が飛行する?」

はじめての店に入るには、それなりの心構えがいる。中の様子が窺い知れない大人の雰囲気を漂わす酒場となれば、なおのこと気を引き締めなければならない。イチゲンさんお断りの店もある。白い目で見られ、居づらい経験をすることもある。凍りつくような請求書が出てくることもあれば、なぜか財布ごと巻上げられることもある。まあ、一生に一度ぐらいは……。
つまり、たとえそのようなメに遭っても、イチゲンの客としては、善しとするぐらいの気持ちがないと大人の酒場に足を踏み入れることはできない。
と、まあリキんでみても、ママが噂の美人と聞けば、たとえリスクを犯しても、なんとも潜り込みたい気持ちになる……。
で、噂の「ティーズ」なる店に往く。

ごくありふれたスナックの入口、扉はホワイトのエナメルペンキに真鍮のドアノブ。
ウーン、このロココ調っぽい佇まい、ちょっと苦手かも……。
イチゲンにとっては要注意な扉。しばらく迷っていると、丁度、目の前をサラリーマン風の男が通り過ぎ、店の扉を開ける。グッとタイミング。千載一遇のチャンスである。

講座 その1「知らない店に一人で入るコツ」

常連らしき客が店に入るタイミングを捉え、後ろに付いて浸入する。で、近くに座り、その客に軽く会釈を送る。相手は不思議そうに会釈を返す。

の、ようにして、当方は店に浸入。
デコラ張りのカウンターバー。常連とおぼしき客3人とワタシ。10人も入れば満員になる。

やけに静かである。

「お久しぶり。お連れさん?」
厨房からママが顔を出す。
ウーン、美人とはちょっと違う。でも、雰囲気を持った女性。なんとなく男心を包み込む柔らかさがある。言葉を替えると、少々オイタをしても許してくれそうな、艶っぽい慈愛を感じる女性に見える。

こ、このヒトなら、駄目ボクでも…大丈夫かも。不思議な期待感が膨らむ。

「ノンちゃん、お代わり……」
「ノ、ノンちゃん、水割り……」
「ノンちゃん、お代わり……」
ン……。
「ビールを……」

ママがカウンターを離れると冷やかな沈黙が流れる。注意して観察していると、客の視線はそれぞれ宙を漂い、客同士、目を合わせることもなく黙っている。
なんか……変だ。
肌に感じるような冷たい緊張感が店を包んでいる。どうも居心地が悪い。話し声がしない。早くママが来ないかなあ……。

講座 その2「知らない店で常連になるコツ」

ママに好かれること。そのためには、さりげなく周囲を気遣い、店の空気に馴染むこと。自らを客と思わず、ママやホステスの気持ちになり代わって周囲の客にも接すること。

と、言うことで、新参の当方も沈黙を守る。が、黙って酒を飲むのは苦手だ。もちろん静かに飲みたいときもあるが、そのような我ままを許してくれるのは、かなり懇意な店に限る。

「ノンちゃん、お代わり……」
「ノ、ノンちゃん、お代わり……」
「ノンちゃん、お代わり……」
ン……。
「ビールを……」

限りなく静かだ。

ママが一人の客に声を掛ける。と、その客はママ限定の世間話をし、この場には自分のほか誰も居ないかのように周囲にはよそよそしい。その間、他の客は無関心を装う。そして自分の番が来るまで、つまり美人ママに話し掛けられるまで、ひたすら無言の時を待つ。それは静かと言うより、微かに敵意がひそむ重い沈黙だった。この状況が半時も続くと、沈黙は苦痛に変わる。

なるほど、そうだったのか。当方は直感する。

講座 その3「美人ママの心を掴むコツ」

美人ママは自分が美人ママであることを十分に知っている。つまり大抵、客は一様にカボチャに見えるという。そしてこの店には見事にカボチャが集まっていた。ママはカボチャに飽きている。たまには歯ごたえのある分厚い肉が食べたーい。(実在のママのお言葉)そうなのだ、カウボーイが食べるような固く歯ごたえのある肉になれ。

「ノンちゃん、お代わり……」
「ノ、ノンちゃん、お代わり……」
「ノンちゃん、お代わり……」

……ン……。

「ロイヤルハウスホールドを…ダブルで……」


周囲の冷たい視線の中、ママだけがにこやかに反応する。
「ショットグラスでお召し上がりですか?」
「ボトルのまま飲んでもいいけど…」
「お強いんですね」
「なんだか言葉が冷えてね……ノドをカッと燃やさないと……ママを口説けないよ」
「お上手ですね」

にわかに店の空気が泡立つ。カボチャが揺れている。

「お連れさんでしょ?」
「ひとりです」
「あら、お名前は?」
「ニシヤン」
「どうしてこの店に?」
「…孤独なママがいると聞いたんで…」

一寸、ママの目が彼方を見るように止まり、ふっと笑顔に変わる。こちらの魂胆を見抜いたのだろう。大きめのショットグラスを2つ取り出し、自分にも黄色い液を注ぐ。

「わたしもいただいていい?」
「どうかな…ママしだいだね……」
「あら、どうして?」
「酔わない女に酒は注がないもの。一緒に酔ってくれるなら、乾杯してもいいよ」
「じゃ、乾杯しましょ……」

これが大人の酒場のごく普通の挨拶なのだ、カボチャども。

ン……当方もカボチャの仲間!?

沈黙の苦行が解けて、解放された心地で、当方、図に乗る。周囲を顧みず、ママを独占した挙句、酔いにまかせてさんざん失言を繰り返した。

「腰が抜けるまで…飲もう……」
「負けたらヤキュウケン……」

こともあろうか、ママまで呼応する。

「靴にパンツで帰るのは貴方よ……」
「ホテルの入口までね……」
「よし、今夜はオレのドーテイを捧げるよ」
「カビの生えたドーテイだったら、ちょん切っちゃうわよ」

その時。カウンターの隅に置いてあったピンクの電話。いまどき珍しい置物が、なぜか空中浮遊をしているではないか。しかも、その物体はゆっくりとこちらに向かって飛んで来るのだ。いったいこれはどのような物理現象なのか。考える間もなく、物体は大音響を立てて床に転がった。(ところで、アレってけっこう壊れないモノだ)

一瞬に店の空気が張り詰めた。見ると、ドアの側に座っていた学生風の男が直立して固まっている。目に感情が表れている。カボチャから本来の男の目に変わっている。

カウンターから出てきたママが、当方の前に立って、優しく声を掛ける。

「イシダクンも…乾杯しよ……」

夜の世界は限りなく深い。美人ママに集まるカボチャ大好き。