バッティングセンターは知っている…!?

この間、歌舞伎町が一斉摘発された。その様子をTVニュースで観ていた。1200人の警官と報道陣が通りに溢れる大規模な摘発である。最近、歌舞伎町は中南米系がアブナイ、という噂を聞いていたが、やはりその地域の関係者が数多く摘発を受けたようだ。

で、なんとなく気になって、翌日の深夜、歌舞伎町を歩いてみる。

表通りは相変わらず酔客で溢れているが、一旦、裏通りに入ると、さすがにひと気はまばら、いつもは路上に溢れている呼び込みもほとんど見当たらない。やはり昨日の今日だと、こんなに静まり返るものなのか!?

「お兄さん、お兄さん、どう?どう? イイコいるヨ!」

路地の影から片言の日本語を操るアジア系の若い女性が現れる。振り返ると結構美人。相手はすかさず当方の腕を取り、身体を密着させて小声で誘いを掛けてくる。

「マッサージ、イイコ、いっぱい、本番OKヨ…」

ウーン、さすが歌舞伎町は、司直の摘発にも負けないんだな。人が入れ替わっても、時が流れても、この街のエネルギーは変わらない。

「で、いくら?」
「イチゴでいいよ」
「イチゴかあ、キミが相手なら考えてもいいけど…」
「ワタシはダメ、もっと美人、いっぱい、いるよ」

こういった店は、客引きと、やり手、サービスの3者の女性で成り立っている。客引きはふつうサービスをしない。若い留学生のアルバイトだったりする。しかも可愛い。で、こんなに可愛い女性がサービスをしてくれるのかなあ、と思うと、かなりイメージが違う場合がある。要注意である。

「お兄さん、この階段上がってよ、イイコいるから」
「ワルイね、今、健康のためにウォーキング中なんだ」
「ウォーキング中!?」
「そう、健康のために! 歩く。わかる?」

風林会館の側までくる。ご存知の方もいるだろう。裏のメインストリート。いつもは客引きで溢れ、歩くのもままならないが、今夜は静かである。客も少なく、呼び込みもいるにはいるが、いつもと違って話し掛けて来ない。

「静かだね」
「お客さん、どこへ行きたいの」
「健康ウォーキング中!」
「もっと運動になるものがあるよ」
「知ってるけど、心臓が弱くて」
「大丈夫ですよ。上が弱くても下が強ければ…」
「ウン!? 今夜はお客が少なくて商売にならないね」
「明日には…いつもの空気が戻りますよ…」
「きっと、そうだね」

街が当方を拒否しているような空気がある。と言うより、摘発後の街を見に来た野次馬には早く出て行って欲しいのかも知れない。歌舞伎町で育った当方なのに、なんとなく出張で立ち寄った地方の繁華街のようで、よそよそしい。

しばらく歩くと、バッティングセンターに出る。近くまで行くとボールを打ち返す金属音が耳を突く。いつも不思議に思っていた。なぜ、ココにバッティングセンターがあるのか?

ところで、ココで最後にバットを振ったのはいつだっけなあ…?

…ウーン、そうだ、思い出した…

通いつめたスナックのアキちゃんを、やっと閉店後に連れ出したのは良いけれど、食事が終わって、いざ出陣ってところで、

「今日はアレだから」

の一言で、置き去りにされた夜だった。あの爽やかな笑顔は今でも忘れない。

しかし、たまには男も言ってみたいよね。

「オレ、今日はアレだから、ダメなんだ」

そう言われて、男に置き去りにされたオンナは、一体どうすればいいのだ。

ウン!?

そうだったか。何年も経って、ようやく思い当たる。歌舞伎町のバッティングセンターは、当方のように、その夜、バットを振れなかった男の自慰行為の場だったんだね。そう思うと、バッティングをしている男たちもイジらしい。けれど、やっぱ当方としては、今日はアレだから、と言って、爽やかな笑顔で去っていく女性の方に、気持ちを残してしまうんだね。

そう。深夜、男たちをバッティングセンターに追いやる夜の街の女たち、悔しいけど、ヤッパ大好き。

セクキャバに沈没す

新宿ゴールデン街が復興したという記事が新聞に掲載されていた。バブル期に地上げに遭い、店が潰れ、ここ数年はゴーストタウンのように閑散としていたが、昨年あたりから、若い経営者たちが新しい店をオープンさせて、ようやく飲屋街の様相が戻ってきた。とは言え、通りはまだひっそりとして昔の活況には程遠いように思える。

それに引き替え、通り1本隔てた歌舞伎町は、何たる繁栄なのか。
人、人、人。
あんちゃん、学生、サラリーマンが溢れ、オヤジに、ヤクザに、ホームレスが行き交う。通りを歩くと、呼び込み、ガイド、客引きと、ギャルに、人妻、お姉ちゃんが声を掛けてくる。奥に入ると台湾、中国、フィリピンから、ロシア、ベラルーシルーマニアが連呼され、路地を回って南米のコロンビア、コスタリカ、ブラジルが秘密の合言葉のように囁かれている。

あーあ、いったい、ここはどこの国。

ネオンのジャングルを探検すると、パブに、スナック、キャバクラが乱立し、ソープ、ヘルスに、イメクラと続く。電飾看板に目をやると、デート、個室に、出張と、SM、セレブで、性感などが、ピンクの文字で点滅する。

あーあ、この蛍光管の森林浴、なんだか頭がクラクラする。

それにしてもこの熱気は何だ、と人酔いに疲れて立ち止まったその刹那、
「兄さん、イイトコ、あるよ」人懐っこい笑顔のオヤジに呼び止められた。
「ウン!? オレ? 今日は打ち止め。静かな店で一杯飲んで帰るよ」
通りを歩いただけで、幾分、食傷気味の当方、やんわり相手をかわして立ち去ろうと思う。
「静かな店、まかせてよ! ぴったりな店があるよ」
オヤジは自信ありげにうなずく。
「言っとくけど、ふうぞくならお断り、普通の店なら入ってもいいけど」
「ふつうの、静かな、癒し系のお店だよ!」
ニッと白い歯を見せる。邪気の無い笑顔にこちらの気が緩んだ一瞬、グイと手を引かれて目前の店に入る。
子羊を導くような慈愛の表情を浮かべ、
「この時間、割引だよ、楽しんでね」オヤジが通りに戻っていく。

「あーあ、鴨になっちゃったよ」
独り言をいう間もなく、8000円を払って店の中に引き入れられると、薄暗いフロアにミラーボールの光がくるくる回り、クラブサウンドがガンガン鳴っている。
「ど、どこが静かな店やねん」
黒スーツの店員に案内されて狭い席に着く。
「お飲み物は」
「ビール」
おしぼりと缶ビールが1缶、そのまんま、味気なくテーブルに置かれた。
「こ、これが癒し系だって・・・」
周囲を確かめる。シートはすべて前面に向けられ、まるで場末の映画館。時間が早いせいか、客もまばら、女の子も客に一人の、なんとなく侘しい感じ。
「これで商売になるのかな・・・」と思ったそのとき、白い影が隣に座った。
「可奈でーす」
「え、カナちゃん?」
「そ、可奈でーす」
店のサウンドがうるさくて、よく聞こえない。相手の耳元に近づいて言葉を交わす。
「いくつ?」
「にじゅういち」
「なんだか、音楽がうるさくて、話が上手くできないね」声を張り上げる。
女のコはかぶりを振ると、いきなりミニスカートをたくし上げ、当方の膝の上に馬乗りになって座る。と、目の前に顔がある。しかもあまりに近過ぎて、目の焦点が合わないくらいだ。
「こうすると、話ができるわよ」
顔と顔がぶつかりそうになる。少しそらすと、お互いの口元に相手の耳が来る。確かに、これなら話ができる。

でも、この態勢はなんだか不自然だ。たとえば、こちらの手が宙に止まったまま行き場を失っている。なぜなら、手を下ろすとむき出しの脚に触れてしまうし、背中に回して垂らすと、今度はお尻に触れてしまうので、どうにも落着かない。
「あ、あのう、確かに話し易くなったけれど、ぼくの手をどこに置けば良いのか、その、つまり困っているんだ……」
女のコがケラケラ笑い出した。
「ホントだ、身体が固まってる」
彼女はこちらのぎこちなさが可笑しくてならない風だった。
「お客さん、なんて名前?」
「ニシヤン」
「初めて来たの?」
「そう」
「じゃ、教えてあげる。この手はね、どこに置いてもいいの」

そう言って、可奈ちゃんは、いきなり手を取って、自分の胸に押し当てた。当方、突然、鼻血が出そうになる。ブー。
「可奈ちゃん、ちょっと離れて、顔を見せて」
相手の肩を押さえて、顔全体が識別できるだけの焦点距離をとる。
美人だ。
ま、きっとこう書くと、作り物の文章のようになるけれど、彼女は昼の光線の下で見ても、おそらく振り返りたくなるような可憐さと華やかさとコケティッシュな色気を持ち合わせている。つまり、一般的な男なら一様にお熱を上げるタイプの女性に見える。
「可奈ちゃんは、とっても美人だね」
感動を、素直に表現する。
相手は一瞬、虚を突かれたように真顔でこちらを覗き込む。その表情の変化を見て、当方も一矢を報いたことに気づく。
「可奈ちゃんような美人なら、お客さんの指名も多いんだろ?」
首を横に振って
「指名はね、わたし、少ないの」と恥ずかしそうに答える。そのシャイな表情が意外に思えた。
「でも、こんなに美人なら、お客さんも放って置かないだろ」
「そんなことないわ、だってたくさんの女のコとお話した方が愉しいでしょ」
「オレなら、可奈ちゃん一筋で、セッセと通い詰めるけどなあ」

ちょっと言い過ぎかもしれない、と思いつつ、相手を賛美し続けると、いきなりズームアップされた肉厚の唇が当方の唇に重なっていた。
頭が真っ白になる。いったいこの店は何?
「今だけ……ニシヤンのコイビトなの……」

それからどれぐらい時間が経ったのか、店員がセット時間を告げに来るまで、当方、膝の上の可奈ちゃんに翻弄される。
確かに、この店はふうぞくではない。といって、ふつうのキャバクラでもない。あとで分かるんだけれど、セクシーキャバクラ、俗にセクキャバって言うんだね。いろんな店のいろんなサービスが歌舞伎町にはある。

表に出ると、例のオヤジがまた客引きをしていた。すれ違いに声を掛けると、
「お兄さん、癒し系だったろ!」と店を指して、ウインクをする。
当方、うなづく。不思議な満足感が身体を包んでいる。きっと、湯に浸って酒を飲んでいるような、やっとトイレに間に合ったときのような、間抜けな表情を浮かべていたに違いない。

改めて夜の街の奥深さを思い知る。セクキャバ大好き。

敵は幾万ありとても

最近、知らない店にフラリと入ることが多くなった。だからどうってこともないけれど、初顔なのに、さりげなく酒を飲み、なんとも店の空気に馴染んでいる。そんな感じを楽しむようになった。

もちろん、当たりハズレは、ある。
が、ハズレは、コチラの修行不足と考え、店を恨まず、己を戒める。まるで宮本武蔵の心境、と言うのはウソだが、逆に思いもよらずスッポリ店の空気にハマると、なんとも酒場が楽しく思える。

先日、路地裏の飲屋街を歩いていると、クリスマスの電飾に使うような豆電球が明滅する店があった。そんな子供っぽい電飾が、却って店を侘しく見せ、当方としては感心しない。普通は立ち入らないタイプの店に思えるが、通り過ぎようとすると、少し開いた扉から華やかな声が漏れてくる。

…ウン、けっこう流行ってる…

入る気もなく隙間から中を覗く。店は客で溢れ、しかも若い女性の嬌声まで聞こえてくる。
久しぶりに訪れた飲屋街、懐かしさで、一通り見知った店を確認して歩くと、すでに深夜を回って、開いている店がない。で、気が付くと、再び電飾の店の前にいる。

…この店はハズレかも…

そう思いつつ、思い切って扉を開ける。
先程の喧騒は消え、落着いて話し込んでいる風だった。一人の客が奥に座っているカップルに何か諭しているといった図である。当方、ママを見るともなく見て、カウンター中央に座る。一瞬、周囲の視線を集める。

「あのう、お客さんは!?」
「ハーパアの…水割りを…」

間髪入れず、しかしゆっくり答える。このタイミングを間違えると別の会話になってしまう。

「初めてですか?」
「ええ」
「申し訳ありませんが、閉店なんですよ」
「そうですかあ、残念だな」

初めての店、初めてのママ、との対話は剣道の立会に似ている。近すぎず、遠すぎず。踏み込まず、踏み込まれず。己を捨て、店に同化し、一体となる。無にして有、有にして無限。

…ウン、当方は何を口走っているのだ!? …

なぜこんなことを言うかといえば、目の前で入店を断られる客を多数見てきたからである。中でもこんな客はいただけないのである。

「あ、あのう。こちらの店の料金システムを教えてくれませんか?」

失格である。店を見て料金システムも予知できないなら、一見の客として新しい店にチャレンジしてはいけないのである。が、気持ちは分かる。地方出張なんかだと、よく店を間違えてボラれたりするからね。

で、ともかく当方、初めての店に潜り込むことに成功したわけである。

「初めて…ですよね」
「ええ」
「どうして…こちらに?」
「外の点滅が気になって」
「…!?…」

現実に、上記のような会話だった。つまり、要領を得ない会話。だから、互いに踏み込めず、理解できず、会話にならない。

「あのう…お名前は」
「この街ではニシヤンと呼ばれてる」
「ニシヤン…?…」

コレが初めて入った店での、すべての会話だった。
当方、とても満足である。これ以上、何も話す必要はないのだ。しかも、後はその場の空気に合わせ、自然にリラックスし、周囲の警戒心も解け、さらに存在感さえも薄れていく。忍法木葉隠れの術ならぬ、酔い隠れの術である。

そうなんだ。以前、銀座や赤坂のクラブなんかで、酔うほどに存在が消えていく年配の客を見かけることがあった。ホステスや客の話を聞くとも無く聞いて、見るからに心地よく酔っている。若いうちは、そんな影の薄い飲み方なんて、楽しくないかも、と思っていた。むしろ周囲を惹きつける話題を機関銃のように打ち込む酔客の方がカッコイイと思っていた。が、今は違う。あの無限の域に達した自然で豊かな飲み方、居るか居ないか分からない存在なのに、話をすれば人情・色恋の機微に通じ、底知れない深みに引き込まれていくような得たいの知れない通人こそ、当方の理想である。

「だからよー、オメーさんの彼女も美人ではある。が、だ、オレはママに惚れてんだ。この切ない気持ちが分かるかー。オメーさんも隣の彼女に惚れてんなら分かんだろ。しかしオメーさんの隣に居る彼女のオッパイはキレイだな。オレはオッパイも好きだ」
「分かります」
「ウン、オメーさん、オッパイが分かんのか? それとも、男の切なさが分かんのか?」
「両方です」
「それでいい…」

うーん、含蓄があるような、ないような話である。酔い方にもいろいろある。怒り上戸、泣き上戸、説教魔に口説き魔。脱ぎ魔に睡魔。

「この間、店を閉めて、外へ出ようと思ったら、足が引っ掛かるから足下を見ると、マーちゃんがパンツ一枚で転がっているんだよ。もう、驚いちゃうんだから」
「そうなんだ。この前なんか、服を丸めて枕にしてさ、路地で寝ていたんだぜ。服がドロドロでさ、このままじゃ、出勤できないから、家まで帰って着替えたよ」
「今度、店で寝てたら、宿泊代も取るからね」

若いときは、酒量の限界が分からないので、いきなり酔いつぶれて恥ずかしい思いをすることがあるが、最近は若い女性にもこの傾向が広まっている。ゴミの山に捨てられている二十歳ぐらいの女性を何度か目撃した。不思議である。オトコは捨てられることもあるが、若い女性が捨てられるケースは滅多になかったのに、最近は平気で捨てられている。まったく、どんな仲間と飲んでいるのだ。

「聞いてくれよ。この前、コイツ、オレのズボンのポケットにゲロったんだぜ。店には入れないし、タクシーには乗れないし。結局、そこのホテルでズボンと下着を洗って、乾かしてもらってよ。オマエ、オレをハメただろ」
「酔っ払った私をそのホテルでハメたのはあんたじゃないの」
「んな訳ねえだろ、みんなが信じるじゃねいか」

酒場の面白さは、酒に酔い、男と女に酔い、裸の人間模様に酔う中で、人肌の付き合いに触れ合う面白さにある。が、もうひとつは、そのような人間模様を静かに観察し、ときには相談相手になり、ときには恋の駆け引きの指南役にもなる。これまた人生の深みに触れて楽しいのである。

閑話休題

で、当方、ようやく初めて入った店の状況が掴み取れたのである。一言で言えば口説き魔の客と口説かれているママとカップルであった。2対2で、当方はお呼びでないなと思いつつ、店の中を観察する。

酒場の味わいとは、ママやマスターとの相性で決まるから、さりげなくママの人となりを観察する。歳は25〜6。大人の雰囲気を持った美人である。が、美人が持つどことなく澄ました空気はなく、明るく気さくな素人の娘さんといった雰囲気である。このママなら、きっとどんなお客さんにもモテるだろうな、と直感する。20年前の伝説のママ、N子さんを超える逸材かもしれない、とも思う。
N子さんもまた25〜6歳で小さなスナックを始め、10年で5軒、20年で10軒を超えるパブや会員制クラブやレストランを経営する、この界隈では有名なサクセスママである。今はもう50歳に到達しようと言うのに、未だに女学生のような若さと恥じらいと華やかさを持っている。当人が読むと気を悪くするかもしれないが、怪人である。

この店のママは怪人ではない。大志を秘めているとも思えない。むしろ夜のスナックやパブに集まる客がどのようなものか、その世界を興味津津に見つめている。
当方の想像ではある。が、ママは人間に興味を持って店を始めたに違いない。では、どんな人間に興味を持っているのだろうか。

「わたし、ケンさん、大好き」

先程から熱弁を振って口説く相手を、ママもまた気に入っている風だ。そのケンさんを眺めながら、ママの心情を空想する。

ケンさんと言えば、映画スターの健さんを思い浮かべる。何処となくアウトローで、危険な匂いがあり、しかも社会的な力を秘めたオトコ。乱暴で強引な行動力を持ちながら、繊細でとても傷つきやすいオトコ。
目の前のケンさんと映画スターの健さんがダブって、当方の頭の中には、通常では存在しないカッコイイ男が立ち上ってきた。

…カッコイイ男でないと、このママには訴求できないかもしれない…

健さん、かあ。当方にはムリだな…

ふとママの視線を感じる。丸い瞳が真っ直ぐコチラを見詰めている。当方、咄嗟に心の中で健さんを演じる。(カアー、演じられるワケ、ねーだろ)

ドギマギしていると、調度、女性客がふたり入ってきたのを潮時に、ポケットから札を出し席を立った。

…今度は、健さんの映画を観てから、この店に来よう…

当方、いつになく訳の分からない納得をして、夜の街を去る。

そう、正直に告白しよう。当方、美人ママは苦手である。が、本心は、どんな客も健さんに変えてしまう小さなスナックのママ大好き。

文豪の教え…は…危険がいっぱい!

酒場に通いつめると、当り前のことだが、酒の上での失敗は一度や二度ではきかないもの。隣に美人が座っているからといって、これぞ天命と信じ口説いていると、突如ヤクザ系男性が現れ脅しを入れられることもある。コレ、俗にいうツツモタセ。あるいは酒好きのOLと意気投合したのは良いけれど、知的な彼女いきなり酒乱に変身、その責任を一身に浴びることもある。
まあ、こんな話は序の口、語るに足らないかもしれないが、やはり酒場に通う以上は、粋に楽しく過ごしたい。欲を言えば、酒場でモテるその道の達人と呼ばれたいなあ。しかし酒場の達人ってナニ!?

高校生の頃、尊敬すべき文豪の名文を読んだことがある。
曰く、つるりと女の尻を気軽に撫でることのできる男性こそ、じつは赫々たる戦果をあげているという人物だ。
ブー…、先生、いったい何を仰るのです…。
さらに先生、女の尻を触って喜ばれこそすれ相手に不快を与えたためしがない、と豪語する。
ホ、ホントかなあ?
しかし、この名文に気躓いて以降、「つるりと女の尻を気軽に撫でることのできる男性」という言葉が頭から離れなくなった。と言って、決して満員電車の中でそれを実行したことはない。

先日、久しぶりにコピーライターの友人と会う。無類の酒好き、文学好き。小説家の友人も多く、飲むと一方的に文学論を聞かされる。当方はチンプンカンプン。であるが、熱中して話す彼の姿を見ているのは悪くない。

「つまりクリエイティヴ・ノンフィクションが生み出したウィットや懐疑主義は、事実とその裏にある真実の谷間に吊り橋を掛けるような試みなんだ」
「……?……」
「まあポストモダン・フィクションの限界と現実の複雑さを打ち破ることが目的だけれど」
「……?……」

チンプンカンプンな友人の話を聞いていると、なんだか脳の空洞に溜まったすすを払ってもらったようで、なんとなく賢くなった気がして、心地よい。
が、その日はどうも聞き上手になれない。隣のカップルの会話が、友人の言葉の間に侵入して、気になって仕方がないのだ。

「過去の否定でも破壊でもなく…」
「……?……」
『オマエの本性は全部お見通しだよ』
「……!?……」
「要は再構築なんだ…」
「……?……」
『オマエはサイテイなオンナだよ』
「……!?……」
「形式や概念を呑み込むんじゃなくて」
「……?……」
『いったい何人の男をくわえ込めば気が済むんだよ』
「……!?……」
「一方はポストモダン的であり…」
「……?……」
『ちょっと口説かれたら簡単になびきやがって』
「……!?……」
「他方はアヴァンギャルド的なんだ」
「……?……」
『あばずれだよオマエは』
「……!?……」

隣に女がいる。その横で男が一方的にその女をなじっている。不快な男の言葉がストレートに耳に入って聞き苦しい。酒のせいかもしれないが、ネチネチと悪言を繰り返して、ほとほとウンザリしていた。女はまったく冷め切っている風に、男の言葉に反応しない。しかしこんな男と付合う女も悪い。一発、酒をぶっ掛けて出て行けばいいじゃないか。男の皮肉や讒言を聞いているうちに、この女が男をブン殴って出て行くことを願う自分に気づく。せっかくの楽しい語らいが、悪質なウィルスに侵入されて台無しだ。

店を代えようか、でも友人の弁舌はすでに加速状態を通り越して、高速道路に入ってしまった。ここで話の腰を折るのも申し訳ないし、どうしたものか、思案をしていると、ふと、あの文豪の名言を思い出したのだ。

「つるりと女の尻を気軽に撫でることのできる男性こそ、ホンモノだ」

当方、0.1秒ですべての事態を考えた。

つるりと尻を撫でると…。

1)女は当方の無礼に怒って店を出て行く。男もスッポンのように女に付いて出て行く。
2)女が男に言い付ける。男が怒る、それをキッカケに友人にはインターチェンジに入っていただいて、男を追い出す。
3)逆に返り討ちに遇う。

ともかくこの事態を打開しないことには、極度に難解な話と、極度に聞き苦しい話がミックスされて、極度に悪酔いしかねない。何とかこのカップルに退散願いたい。
と、考えた瞬間、無謀にも、当方の手が隣の女性の尻を…。

つるりと撫でた。(オレもサイテイなオトコだ)

一瞬、女の体がピクリと動作するのを、肩越しに感じる。

心の中で次の展開に対応ができるよう身構える。が、何も起こらない。当方は友人の話に聞き入っている。女も相変わらず男になじられている。

そうか、当方の「つるり」は不発に終わったか。それにしても、こんなに侮蔑されて黙っている女にも問題がある。二人が良い関係でないことはハッキリしているが、いったいどのような関係なんだ。

と、そのとき、こちらの体がピクリと固まる。

カウンターに頬杖をつき、片手はヒザの上に置いていた、その手の上に女の手が添えられている。

…ウン?…

こちらは相変わらず友人の話に聞き入っている。女も男になじられ続けている。何も変わらない。なのに知らない手と手が触れている。

しばらく放って置くと、女の手がオズオズとこちらの掌を確かめるように撫でていく。
「つるり」の返礼なのか?
それとも男好きなのか?
女の意図がよく読めないので、ひょっとして文豪が語るように、当方の「つるり」が相手をその気にさせたかもしれない、と思うと、なんとなく鼻の下がポヨーンと延びそうになる。

「知覚と現象の間には複雑な回路があるけれど」
「……??……」
『結局オマエの頭ン中にはアレ以外何もねえんだろ』
「……!!??……」
「神話と言うメタファーを使って複雑性を克服するというのはどうだろう」
「……???……」
『オメエみてえなオンナに引っ掛ったオレはみんなの笑いモノだゼ』
「……!!!???……」

女の手が不意にこちらを強く握りしめる。男の罵詈に女の手が反応しているのが分かる。戸惑うような、助けを求めるような、不安定な震えが伝わってくる。強い衝撃を受けた小さな子供のような震えだった。
そうかあ、と思う。
男の悪言に女はシュールに無感覚だった訳ではないのだ。むしろ、いっぱいイッパイの状態で執拗な男の悪罵に耐えていたわけだ。

ナーンダ、女が当方の手に触れたのは、例の「つるり」に色気を感じたせいではないのだ。当然と言えば当然だが、少し期待を持っていた分、何となく拍子抜けして、もういい加減にして帰ったら、と言う意味を込めて、相手の手の甲を軽く叩いて離すと、女は手綱を失ったかのように、慌てて当方の手首を握り直した。

…アレレレ…

こちらは相変わらず難解な話に聞き入っている。女も相変わらず男になじられている。何も変わらない。なのに密かな関係が背中合わせに始まった。

変質的な嫉妬と罵倒する快感を丸出しにした男の話を鵜呑みにすることはできないが、この女もどうしてこんな男に支配されてしまったのだろう。彼女の手の微かな震えから推測すると、大胆な性格ではないし、むしろ弱弱しい従順な性格、どちらかと言えば、周囲に流されるような主体性のない女に思える。好きと言われれば、何も疑わず、好きになり、バカと言われれば、反論もできず、落ち込んでしまうタイプ。この男はそんな気弱な女を自分の気が晴れるまでサンドバックのように侮辱し続けているのだ。

「リアリティーを解析するだけじゃ、もうこの世界からは抜け出せないんだ」
「……????……」
『バカと付き合ってバカにされて、オレがバカみてえじゃねいか』
「……!!!!???……」

女の脈がこちらの指先に伝わってくる。その頼りない脈動に触れていると、こちらまで切なくなる。トクントクンとしたリズムが女の密かな嗚咽のように思えて、なんだか悲しい気分になる。
しかし、コレって当初の企みとはまったく違うんだな。文豪がのたまうシチュエーションでは、「つるり」はもっとスマートで洗練された男と女のコミュニケーションなのに、どうして当方が真似ると、こうも危ない状況になるんだろう。

『付き合った女の中で、オメエが一番サイテイだよ』

「…!!!!!!!!!!!…」

しかし、この男を黙らせるにはどうしたら良いんだ?

当方、0.1秒ですべての事態を考えた。

二度とこの店に顔が出せないような屈辱、女を侮蔑した100倍の侮辱を味合わせてやりたい。しかし、どうすればそんなことができるんだろ。尻を触る。腰を触る。背中を触る。顔を触る。頭を触る。

…ウン…

そうかあ、この男をギャフンと言わせるには、男が言うようなサイテイな行動に出るしかないんだ!

嗚呼、神様お許しを!

「つまり、それが解釈的行動の帰結というものなんだ、ニシヤン…ウン…???…」

『オメエみてえなオンナは、どっかのバカを相手にしてりゃイイんだよ…ウン…???…』

指と指を絡ませた手と手で大きな弧を描くと、女の体は向きを換え、反転してこちらの胸に飛び込んでくる。と同時に、彼女の腰をグイと引き寄せると、何のためらいもなく、そう(女の直感で予測していたのかもしれない)何のためらいもなく、唇と唇が自然に重なり合う。

「…………………………………」

『…………………………………』

静寂の中で、とりあえず二人は固まっていた。客は他にもいたのに、突然店の中が静かになった。多分、呆気に取られたんだろう。無関係な男女がいきなり向きを換えて抱き合っている。前後の繋がりも、左右の関係も、何もない、まったく対照的な二人組が、たまたま隣り合わせに座っただけなのに、こんな事態になってしまった。友人も男も一言もない。ただ黙っているだけで、まったく事態が飲み込めないようだ。

粋の極みであるはずの、例の「つるり」は予想外の展開になった。しかも周囲には到底説明がつかないのっぴきならない状況を自ら作ってしまった。しかし、こんなとき誰かに言い訳めいたことを言うのもイヤ、相手の男と口を利くのもイヤ、ありきたりな仲裁もイヤ。と言って、いつまでもこの状態ではいられない。面倒な話はせず、せめて最後はスマートにいきたい。

当方、今度は1分以上ゆっくり時間を掛けて次の事態を考える。

1)男は騒ぐだろうか?いや騒がない。なぜならもう沈黙しているではないか。
2)女はまた男にいじめられるだろうか?少なくともこの店ではいじめられない。
3)どうしたら女を傷つけずに、元の状態に復帰できるのか?

…ウン…

元の状態に復帰する?…。再起動?…。工場出荷状態?…。

…そうか…。

そっと唇を離すと、握り合った手でもう一度大きな弧を描いてみる。女は丸椅子を回転させ、何もなかったように男の方に向きを換える。こちらもその反動で、元の体勢に戻った。
目の前に驚愕の表情を浮かべた友人がいる。その表情を眺めながら、ゆっくりうなずいて、相槌を打った。

「ナルホド、これが解釈的行動の帰結なんだネ」

夜の街には予測できない危険が潜んでいる。そんな危険に絡んでしまうサイテイな自分を恨みながら、密かに女を思う。愚かな男に翻弄されるウブでやさしい酒場の女、大好き。

思い出のゴールデン街

新宿ゴールデン街は復活したと言われているが、実のところ当方、いまいち実感できないでいた。と言うのも昔のイメージが強くて、あの頃のような店と客の濃密な関係は再現できないだろうと思っていたからだ。

が、それは思い過ごしだった。

そう、ゴールデン街は復活した。

この半年の間に、多くの店がオープンした。現役の若い女優さんが始めた店には演劇関係の仲間が多く来店するが、イチゲンである当方のような風来坊にも、とても気を使っていただいて居心地が良い。常連しか入れない店もあるが、入ってしまえば追い出されることもなく、昔のように作家やジャーナリストが変わらず飲んでいる姿を見かけて驚く。老舗の看板を付けていても、中にいるママやマスタアはグンと若返って、その分、客層も若く、街全体に活気が見えてきた。

となると、当方としては、一通り、新しい店をチェックしたいのである。で、最近、再びこの街を徘徊するようになった。

「なんちか、男にとっちゃ、人生で一番大切な言葉は『外に出ろ』の一言なんじゃ」

最近、何となく気に入って、顔を出すようになった店で、いきなり別の客にカラまれた。と言うより、この店の客は皆、どこか濃い〜のである。その濃い〜ところが面白い。

フラリと入った初日のこと、他所で何度か席を並べたことのある客が、この店のママを賛美して、飽きることがない。

「本気でよ、オレはキッコに惚れてんだ。男がよ、惚れるってーのはよ。命を捧げるってーことなんだ、わかるかー」

いきなり直球を投げていた。

二度目に顔を出した折は、あたふたと駆け込んできた別の常連が大声で自慢話を始めた。

「キッちゃん、聞いてくれよ。今、イタリア人のカップルが表にいたんだ。彼氏があっち向いてる間によ、ブォナセーラ、セニョリーナ、アモーレ、セニョリーナって言ってやったら、いきなりブチュとキスしてきたんだ。しかもだ、濃厚な接吻なんだぜ。オレ、腰が抜けそうだったよ」

この男も、ノッケから火を噴いていた。

三度目に顔を出したときは、なんとあのミッキーさんがいた。長年ゴールデン街で店をやっていて、3丁目あたりも含め11軒の店を持っている。今ではこの街の長老といっても過言ではない。そのミッキーさんが、すでにこの界隈のアイドルママになりつつあるキッコさんにCD-ROMの焼き方を教わっていた。若いときのミッキーさんはつぶらな優しい目をしていた。最近は多くの従業員を抱え、硬いまなざしの日が多いように思っていたが、この夜は、若いときに見たあの柔和な、そして少しシャイな目だった。

この店は昔のゴールデン街の店に似ている。客と店の関係がとても濃くて、客はあっけらかんと感情をママにぶつけ、下町育ちのママは小気味よくポンポンとその感情を撥ね返している。

聞けば、当方も知っているようなこの街のコアな客が常連に名を連ねていると言う。なるほど、たった半年でこの街の通人たちから認められ、可愛がられている店だった。と言うことは、この店でしくじるとゴールデン街中に噂が広がり、周囲を敵に回すことになる。

で、四度目に顔を出したこの夜、当方、なぜか鹿児島出身のテツに絡まれていた。テツなる客はもともとカラミ酒なのだろうか。

「外に出ろ。こん言葉さえ知っちょれば、男は遅れを取ることはなか。チェースト」

「…!?…」

フラッと外へ出たテツがハルオさんと呼ばれる男を連れて戻ってきた。この店の共同経営者だと言う。同じゴールデン街に別の店を開いていて、経理を加えて3人で2軒の店を運営しているんだそうだ。そのハルオさん、テツとは同郷なのだろうか、外に出ろ、と繰り返すテツをフォローするように鹿児島の気風について説明してくれる。ほかに客は当方だけ。それとなくこちらに気を使っている。で、当方、穏やかに鹿児島の気風について講釈を受ける。

「そうだ、ハルオの店に行けよ」

テツの提案に同意する。なんとなく場が持てなくなっていた。外に出ると、テツに案内され、三筋離れたハルオさんの店に入る。テツはそのまま元の店に戻った。

少し暗いが、シャレた店だった。カウンタアが長く、入口近くがアールになっていて、客のスペースが広い。表だけでなく、裏にも扉があって、裏からも出入りができる。

… ウ〜ン!? …

当方、しばらく店の様子を確かめる。

コンクリートで固めたカウンタア。壁に作り付けた棚。対面の壁に嵌め込まれた足のないテーブル。足休めの段差に固定の丸椅子。

間違いなかった。

「ハルオさん、この店、昔、オレもやってたんだ…」

エスパすりい、通称ニシヤンの店だった。まさか自分がやっていた店に来るとは思わなかった。

…そうか、この店も再開したんだ…

女性客ばかり、4人がカウンタアに座って、ハルオさんの誕生日を祝っている。当方、その乾杯に参加しながら、ニシヤンの店の情景を思い出す。

いや、思い出すと言うより、むかしの店の面影に触れるだけで、どこかに紛れていた記憶のスイッチに、いきなり電気が灯り、頭の中のスクリーンに脈絡もなく断片的な映像が流れていく。忘れかけていた人々の情景が次から次と現れてくる。

…あのう、2万円貸してくれませんか。この人と朝まで過ごしたいから…

…わたしも諦めるから、あなたも諦めて…

…人生はただ生きるだけでも価値があるんだ。だから、死ぬなよ…

…アッちゃんが包丁を持ち出したんだ…

…たまらなく寂しい。寄り添ってくれるオトコが欲しいわ。だって涙も出ないほどみじめなの…

…あなたが望むなら、あたし、どんな苦労でもするわ…

…あなたの側にいるだけで恥ずかしい。でも、あなたの側にいるだけで嬉しいわ…

…ニシヤンはバカよ。計測不能なバカよ。救いようのないバカよ…

…人生の芸術家だから破産しったって気にすることはないじゃないか…

…この店に来る客はみんな家族なんだ。だからケンカばかりするんだよ…

…またフラれたんだって、今夜は愛ちゃんもフラれたんだよ。どうだい一緒に飲めば…

…フラられた者同士、とりあえず同棲します…

…ニシヤン、また来週、飲みに来るね…

…今度は彼女を連れておいでよ…

一人ひとりの席に、一人ひとりの顔があり、一人ひとりの言葉が語り掛けてくる。もうすっかり忘れていた情景が突然脳裏にせまってきて、胸を熱くする。

そうだった。ここはかつてニシヤンの店だった。でも今はハルオさんたちの店だ。テツなる客が当方に絡んだのも、実はこの店と再会するための謎解きだったのかもしれない、と変にナットクする。

帰り際、飲み代を払って表に出ると、ハルオさんが追いかけて来て言った。

「テツのことは許してやって欲しい。アイツ悪い奴じゃないから」

当方、首をかしげる。確かにカラミ酒だったが、そんなに不愉快な思いをしたわけでもない。わざわざ謝る必要もないではないか。

が、その理由は後日、さりげなく語ったママの言葉で分かった。

「最近、キッコは恋をしてるんじゃないのか? て、ハルオさんが訊くから、ニシヤンって知ってる? て、答えちゃった」

なるほど、この前はあの二人に誤解されて、当方が試されていたんだな。しかし、こんなにアッケラカンと感情を口にできる店も珍しいか。いや、そうじゃない。昔からゴールデン街はアッケラカンだった。そうなんだ、こんなにアッケラカンと感情を口にできる街だから、人間を見詰めることに長けたジャーナリストや作家や映画人や演劇人が集まってくるのだろう。そして心の底から発露する言葉が飛び交う中で人々は輝きを増していく。そう、ゴールデン街は復活した。

で、当方の感情もまた復活したのだ。光り輝くゴールデン街の小股の切れ上がったアッケラカンママ大好き。

「こんにちは モスクワのリリーちゃん」

「ロシアに行こう!」
出会いがしら、ゴロちゃんに呼び止められた。

友とはヨロコビを分ち合う関係である、と、誰か言っただろうか!?
それはさて置き、夜の友は、まさにヨロコビを分ち合う関係と言える。楽しい店を見つければ、その情報を。美人ママを見つければ、客の生き残りレースを。可愛いホステスを見つければ、メルアドの取り方を。そう、懇切丁寧に教え合うのだ。
余りに懇切丁寧すぎて、ひとりの相手を分ち合うことさえある。このときは真の友情が試される。絶交するか、兄弟になるか、ハムレットの心境である。

…ウン…ホントかぁ!?…ただのスケベじゃないの…てか…

実は当方にも、夜の友がたくさんいる。十年来の付き合いであるが、昼間に出会ったことがないので、いったいどんな仕事をしているのか、全く知らない連中である。相手もコチラが何者か知らないのだ。それでも夜の街では、深い絆で結ばれている。

ゴロちゃんは、そのような親友のひとりだ。で、彼はロシアにハマっていた。
曰く、「映画に出てくるような美人が一杯いるんだ」

…!?…

曰く、「サブリナちゃんは25歳のヘップバーンで、オードリーちゃんは二十歳のヘップバーンにそっくりなんだ」

…!?…

曰く、「教養があって、あからさまにマネーとか、プレゼントを要求したりしない。マックのハンバーガーをおごっただけで、幸せそうな表情を見せられると、感動するよ」

…!?…

「…ニシヤンには…ゼッタイ紹介するよ…」

この熱い友情のお陰で、当方、何度危険な目にあったことか…。

…今夜のアルコールは痔に悪そうだから、よしとくワ!… 
と言う間もなく、腕を取られて繁華街の外れまで連れて行かれた。ひと気の途絶えた裏通りにあるタバコ屋、その脇に地下へ降りていく階段がある。ひとりで歩いていたら、全く気付かない入口だ。
暗がりを下りると、覗き窓の付いたベニヤ張りの扉。どう見てもヘップバーンが隠れているとは思えないその扉を開けると、原色の光が目に飛び込んでくる。ピンクやグリーンの蛍光灯がそのままベニヤ張りの部屋を照らしている。何とも浅薄な色彩に思わず目を打たれる。コレって、ロシアというよりチャイナの奥地、雄大な自然観光地にあった場違いなディスコに入ったときと同じ光景だ。

「いつものオードリーちゃん…。コチラは…ウーン…リリーちゃん…ね…」
ゴロちゃんが当方の相手を選んでくれる。

しばらくして、ゴロちゃんの隣にキツネ顔の女性が座る。

「ライしゅう、ゴロさん、あたらしいショーの、カメラ、トって、ください…」
「写真ね、勿論いいよ。ところで紹介するよ、親友のニシヤン…」
「ショーのドレス、オードリー、ツくっタネ。セなか、おシりまで、セクシー。コンドは、セクシーなオどリ、すごいイイネ」

ローマの休日」のヒロインとは、確かにローマと北極圏ぐらいの距離があるかもしれない。ショーの話が終わると、突然、当方に声を掛けてきた。

「ニシ…Yan!? …そう…、ニシ…Yan…よロ…しク…」

困った。ホントに痔が疼きそうだ。
ふたりの会話を聞くともなく聞きながら、独り空気になって水割りを飲む。
サンクトペテルブルグでダンス教師をしていたオードリーちゃんは、何かの経緯があって、歌舞伎町で働いている。こんな場末の外人パブにいても、ショータイムの踊りに意欲を燃やす彼女には、きっとダンス教師の思いが残っているに違いない。白夜の街で彼女はどんなダンスを教えていたのだろう。

に、しても、当方のお相手の登場が遅い。いつまで待たせるんだ。時間制の外人パブで10分以上放ったらかしはボッタクリと同じである、と不満をアルコールと一緒に飲みながら周囲を眺める。ロシア女性と言えばトルストイドストエフスキーと六本木のチンプンカンプン以外、知識がない。つまり、まったく想像がつかない。それだけに、心の底では微かな光を求めている。

二杯目を空けた頃、「お待ちどうさま…」

キレイな日本語が耳元で囁かれる。見ると、何となく懐かしい顔の女性が座っている。アレ、どこかで見たことがあるような気がする。

「ごめんなさい、お待たせして…」

流暢な日本語に驚く。背は高くなく、髪はナチュラルブラウン、体型はプリンプリン系であるが、デブではない。美人ではないが、ブスでもない。アジア人ではないが、まるっきりの欧米人にも見えない。ブラウスの襟元から胸の谷間が見えるが、セクシーではない。なんて言えば良いのだろう。公園のベンチに座ったら、たまたまそこにいた女性とか。図書館で偶然隣にいたとか。化粧っけがないせいか、夜の店で客の相手をする感じがしない、まったく自然な女性に見える。当方にとっては初めてタイプである。

「言葉が上手だね」
「そうでもない…」
少しシャイな表情を見せる。
「ロシアのどこから」
「モスクワ」
「どうしてこの街に」
「そうね…」

つまらないことを聞いてしまった。外人パブのホステスと自然な会話ができるのは初めての経験なので、つい深追いをする。
こちらが空けた杯にウイスキーを入れ水割りを作ると、彼女はすっと席を立つ。
当方、また、独りで空気になって水割りを飲む。

「ごめんなさい…」
「何が…」
「途中で席を立ったから…」
「どこで日本語を勉強したの?」
「お店で…」
「じゃ、日本人の彼氏がたくさんいたんだね…」

少し首をひねって、ブラウスのポケットからコクヨの小さなノートを取り出す。

「分からない言葉は、ここに書いてもらうの…」

見ると日本語の単語や短文が、細かい文字でびっしり書き込まれている。ロシア語による注釈は少なく、客が日本語で解説を書いていて驚く。これをすべて覚えたのだろうか。

「モスクワでは何をしていたの?」
「看護婦。お母さんも看護婦で同じ病院で働いてた。でも、給料がとても安い、だから日本に来た…」
「こんなに遠い国まで来て、酔っ払いの相手をするのは疲れない?」
「日本の男性は大人しい、優しいから疲れない」
「でも本音では、ロシアの男性の方が良いんでしょ?」
「日本の男性の方が好き」
「いま彼氏はいるの?」

店員が呼びに来て、彼女はまた席を立つ。
当方、再び独りで空気になって水割りを飲む。
ゴロちゃんの解説によると、彼女たちの給料は安いという。観光ビザで来日するコも多く、頻繁に祖国に帰らなければならない。渡航費を稼ぐのも一苦労。それでも物価の違いで、日本の稼ぎは祖国では大金だそうだ。

「ごめんなさい。また席を外して」
「人気者だね」
「私、日本語が話せない女のコの面倒をみないといけないから、彼女たちから呼ばれるの…」
ちょっと首をすくめる。その仕草の中に、通訳としてのポジションに余り満足していないことが、感じられる。

なるほど、これだけ流暢に日本語が話せると、周囲はいろいろ彼女に頼ってしまうだろう。特別に美人とも言えない彼女もそのポジションを受け入れているようで、だから、客に媚びる風がなく、化粧けもなく、自然な雰囲気が出せていたんだろう。でも、やはり夜の店に働く女性だから、少しぐらいはチヤホヤされたいよね。きっと…。

「リリーちゃんと話していると、落着くね」
「……」
「外人パブで、こんなに自然な感じで話ができたのは初めてだよ」
「……」
「リリーちゃんとなら、ずっと話をしていても疲れないような気がする…」
「……」

相手は覗き込むような表情で、しかし丸い瞳を見開いて、当方を見つめていた。
不意に、鋭い矢で当方の目を射抜かれたような気がして、ハッとする。彼女の目から、外人とか、日本人といった人種を超えた、女の普遍的な輝き、男の心を一瞬で裸にしてしまうような光が放たれた、ように思えた。…気のせいかもしれないけれど…

「リリーちゃん、そんな目で見ないでくれる…。心臓が止まりそうだよ…」
「心臓が止まりそう?」
「看護婦さんだから、知っているだろうけれど、実はカウンターショックで心臓を止めたことがあるんだ」
「どうして?」
「ウン、つまり、その、恋をしたから…」

彼女の目が、急に和らぐと、ケラケラ笑い出した。当方としては、それほどウケると思わないフレーズなのに、彼女の笑いが止まらない。

「だから、そんな目で見つめられると心臓に悪いんだ」
「大丈夫、私があなたの胸の骨を折って、心臓の筋肉の運動をしてあげるわ」
「なるほど、それは、とても刺激的だね」

彼女の目がクルクル動く。ヘップバーンのような美貌じゃないけれど、銀幕では見ることのできない生き生きした表情に包まれている。

…恋は心臓マッサージ…

リリーちゃんのノートに新しい日本語を追加した。

…何それ?…
…恋をすると胸がドキドキし、酷くなると不整脈を起こし、それを直すために心臓を止め、止まった心臓を直すために肋骨を折り、折った胸の上から心臓をマッサージする、という意味…

再びケラケラ笑い出す。その笑顔を見ていると、日本もロシアもローマも、案外、地球は近いのかもしれないと思う。

特別にドラマのないひと時を過ごす。緊張しないで話のできる外人パブも良いもんだと思った。

夜は密かに息づいて静かに更けてゆく。日本語が話せる外人パブのヘルパーさん大好き。

「ピンクの電話が飛行する?」

はじめての店に入るには、それなりの心構えがいる。中の様子が窺い知れない大人の雰囲気を漂わす酒場となれば、なおのこと気を引き締めなければならない。イチゲンさんお断りの店もある。白い目で見られ、居づらい経験をすることもある。凍りつくような請求書が出てくることもあれば、なぜか財布ごと巻上げられることもある。まあ、一生に一度ぐらいは……。
つまり、たとえそのようなメに遭っても、イチゲンの客としては、善しとするぐらいの気持ちがないと大人の酒場に足を踏み入れることはできない。
と、まあリキんでみても、ママが噂の美人と聞けば、たとえリスクを犯しても、なんとも潜り込みたい気持ちになる……。
で、噂の「ティーズ」なる店に往く。

ごくありふれたスナックの入口、扉はホワイトのエナメルペンキに真鍮のドアノブ。
ウーン、このロココ調っぽい佇まい、ちょっと苦手かも……。
イチゲンにとっては要注意な扉。しばらく迷っていると、丁度、目の前をサラリーマン風の男が通り過ぎ、店の扉を開ける。グッとタイミング。千載一遇のチャンスである。

講座 その1「知らない店に一人で入るコツ」

常連らしき客が店に入るタイミングを捉え、後ろに付いて浸入する。で、近くに座り、その客に軽く会釈を送る。相手は不思議そうに会釈を返す。

の、ようにして、当方は店に浸入。
デコラ張りのカウンターバー。常連とおぼしき客3人とワタシ。10人も入れば満員になる。

やけに静かである。

「お久しぶり。お連れさん?」
厨房からママが顔を出す。
ウーン、美人とはちょっと違う。でも、雰囲気を持った女性。なんとなく男心を包み込む柔らかさがある。言葉を替えると、少々オイタをしても許してくれそうな、艶っぽい慈愛を感じる女性に見える。

こ、このヒトなら、駄目ボクでも…大丈夫かも。不思議な期待感が膨らむ。

「ノンちゃん、お代わり……」
「ノ、ノンちゃん、水割り……」
「ノンちゃん、お代わり……」
ン……。
「ビールを……」

ママがカウンターを離れると冷やかな沈黙が流れる。注意して観察していると、客の視線はそれぞれ宙を漂い、客同士、目を合わせることもなく黙っている。
なんか……変だ。
肌に感じるような冷たい緊張感が店を包んでいる。どうも居心地が悪い。話し声がしない。早くママが来ないかなあ……。

講座 その2「知らない店で常連になるコツ」

ママに好かれること。そのためには、さりげなく周囲を気遣い、店の空気に馴染むこと。自らを客と思わず、ママやホステスの気持ちになり代わって周囲の客にも接すること。

と、言うことで、新参の当方も沈黙を守る。が、黙って酒を飲むのは苦手だ。もちろん静かに飲みたいときもあるが、そのような我ままを許してくれるのは、かなり懇意な店に限る。

「ノンちゃん、お代わり……」
「ノ、ノンちゃん、お代わり……」
「ノンちゃん、お代わり……」
ン……。
「ビールを……」

限りなく静かだ。

ママが一人の客に声を掛ける。と、その客はママ限定の世間話をし、この場には自分のほか誰も居ないかのように周囲にはよそよそしい。その間、他の客は無関心を装う。そして自分の番が来るまで、つまり美人ママに話し掛けられるまで、ひたすら無言の時を待つ。それは静かと言うより、微かに敵意がひそむ重い沈黙だった。この状況が半時も続くと、沈黙は苦痛に変わる。

なるほど、そうだったのか。当方は直感する。

講座 その3「美人ママの心を掴むコツ」

美人ママは自分が美人ママであることを十分に知っている。つまり大抵、客は一様にカボチャに見えるという。そしてこの店には見事にカボチャが集まっていた。ママはカボチャに飽きている。たまには歯ごたえのある分厚い肉が食べたーい。(実在のママのお言葉)そうなのだ、カウボーイが食べるような固く歯ごたえのある肉になれ。

「ノンちゃん、お代わり……」
「ノ、ノンちゃん、お代わり……」
「ノンちゃん、お代わり……」

……ン……。

「ロイヤルハウスホールドを…ダブルで……」


周囲の冷たい視線の中、ママだけがにこやかに反応する。
「ショットグラスでお召し上がりですか?」
「ボトルのまま飲んでもいいけど…」
「お強いんですね」
「なんだか言葉が冷えてね……ノドをカッと燃やさないと……ママを口説けないよ」
「お上手ですね」

にわかに店の空気が泡立つ。カボチャが揺れている。

「お連れさんでしょ?」
「ひとりです」
「あら、お名前は?」
「ニシヤン」
「どうしてこの店に?」
「…孤独なママがいると聞いたんで…」

一寸、ママの目が彼方を見るように止まり、ふっと笑顔に変わる。こちらの魂胆を見抜いたのだろう。大きめのショットグラスを2つ取り出し、自分にも黄色い液を注ぐ。

「わたしもいただいていい?」
「どうかな…ママしだいだね……」
「あら、どうして?」
「酔わない女に酒は注がないもの。一緒に酔ってくれるなら、乾杯してもいいよ」
「じゃ、乾杯しましょ……」

これが大人の酒場のごく普通の挨拶なのだ、カボチャども。

ン……当方もカボチャの仲間!?

沈黙の苦行が解けて、解放された心地で、当方、図に乗る。周囲を顧みず、ママを独占した挙句、酔いにまかせてさんざん失言を繰り返した。

「腰が抜けるまで…飲もう……」
「負けたらヤキュウケン……」

こともあろうか、ママまで呼応する。

「靴にパンツで帰るのは貴方よ……」
「ホテルの入口までね……」
「よし、今夜はオレのドーテイを捧げるよ」
「カビの生えたドーテイだったら、ちょん切っちゃうわよ」

その時。カウンターの隅に置いてあったピンクの電話。いまどき珍しい置物が、なぜか空中浮遊をしているではないか。しかも、その物体はゆっくりとこちらに向かって飛んで来るのだ。いったいこれはどのような物理現象なのか。考える間もなく、物体は大音響を立てて床に転がった。(ところで、アレってけっこう壊れないモノだ)

一瞬に店の空気が張り詰めた。見ると、ドアの側に座っていた学生風の男が直立して固まっている。目に感情が表れている。カボチャから本来の男の目に変わっている。

カウンターから出てきたママが、当方の前に立って、優しく声を掛ける。

「イシダクンも…乾杯しよ……」

夜の世界は限りなく深い。美人ママに集まるカボチャ大好き。